- Zenkyo
あっ!!!!
少しずつ寒くなってきまして、やっと冬らしさが出てきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
この時期は毎年、我々日蓮宗僧侶にとっては「お水」の時期というくらいで「荒行」真っ只中でございます。
娑婆にいると「今年は暖かいなぁ」なんて呑気な事を考えるもんですが、この記事を書いている朝6時前には荒行僧はもう3時のお水・4時の朝勤を終えた後から読経に励み、6時のお水を待っている訳でございます。
そう考えると私が思う「今年は暖かいなぁ」というのは日中の話であって、朝3時暁天のお水を頂く荒行僧にとっては「バカ言ってんじゃあないよ」という思いかもしれません。
さて話は変わりますが、、、
昨日12月8日は何の日だかご存知でしょうか?
日本ではほとんど馴染みがありませんが、、、
実は12月8日は「釈尊成道会(しゃくそんじょうどうえ)」といって、お釈迦さまがお悟りを開かれた日でございます。
数々の苦行に挑戦し成し遂げてきたお釈迦様ですが、その背景から
12月8日になると「苦行」というワードが必ず飛び交いますね。
苦行には意味が無いやら有るやら、いろいろな意見を散見しますが
やはり多いのは「釈迦は苦行を否定した」と言う意見です。
今日はソレを私なりに少しばかり考えてみようと思います。
まず、私が思うにこの問題で大事なのは
「行」という"一見シンプルな混じり気の無い顔をした得体の知れない何か"
その中に潜む「苦」を何処の何に位置付けるかです。
この「苦」の位置づけを個々が判断するまでの経緯に「苦行」があるのでは、、、
また、ソレを我々は「悟り」と呼んでいるのではないでしょうか。
そもそもソレを実感・体験・理解する必要があるのではないか?
うーん
結局のところ「修行」とは何か、なぜ苦しいのか、を経験則的に判断することが重要なのであって、お釈迦さまが苦行の果てに「苦行には意味がない」と理解した事と、末法を生きる私たちが苦行をせずに「苦行は意味がない」と言うのは根本的に全く別の話なのです。
悟った結果、苦行が直接の要因ではない、と判断したのと
悟った人が「苦行が直接の要因ではない」と言っているから苦行はしない
というのは違う訳ですね。
まぁ何やかんや言ってますが、苦行とは読んで字のごとく苦しい行いです。
ソレが何であれ「行」を積む方には手を合わせたいものです。
何かの拍子に「あっ!!!!!!」となれば儲けもんかもしれません。
そんな冗談はさておき
言葉まとまりませんが、ここでいったん筆をおき、今日も師走の世を走り回ります。

合掌