- Zenkyo
お盆のススメ
夏らしい日が続き、いよいよ今年もお盆の足音が近づいてきました。
お塔婆書きやお墓掃除など大忙しです。
さて、昨日は上原寺が管理経営をしている大宮青山苑にてお盆の合同供養祭でした。
午前10寺11時12時と、本年新盆のほとけ様のご供養
お昼からは、ご依頼頂いていたお塔婆を各地へ届け
午後17時19時は霊園のテラスでの法要
計5座のお勤めで延べ400人のご参列を賜り、大変ありがたい1日でした。
本年が青山苑開園20周年という事で、盛大にお勤めできた事厚く御礼申し上げます。
突然でございますが、皆様は「お盆」の由来をご存知でしょうか?
こう質問をしますと「・・・?」と苦笑いされる方がとても多く、お盆は由来や意味よりも営む事自体に重きが置かれていることを肌で感じます。

この画像は昨日の午前中、先述の新盆供養で使った説明書きです。
私は文字で起こすよりも喋って伝えるほうが圧倒的に得意なので、うまく伝えきれるかわかりませんが、せっかくなので文字起こしをしてみようと思います。
どうぞお付き合いください。
以下、少々以前私が書いた記事をそのまま転載いたします。
ある日、お釈迦さまの弟子の目連もくれんは神通力じんずうりきで亡き母をさがしました。
すると母は餓鬼道がきどう(飢えに苦しみ奪い合う醜い世界)に落ちていて痩せ細っていました。
そこで、母を助けたい一心で目連が神通力で食べ物を母だけに差し出しましたが、母がそれを食べようとすると炎になってしまい食べることができません。どうする事も出来ない目連はお釈迦さまの所へ行き、そのことを相談します。
するとお釈迦さまは「あなたの母は生きている時に重い罪をおかしてしまっていたようです。それは、子供であるあなたへの執着です。“我が子だけ”という慳貪けんどん(欲深い)の罪です。あなたも“母だけ”を助けようとしましたね。もう一人の力ではどうすることも出来ません。」とお話になり、続けて目連にこう仰いました。
「7月15日(旧暦)に、すべての修行僧と多くの人に対して“分け与える心”と“慈悲の心”をもって供養をしなさい。そうすれば、母はもちろん、多くの者が救われ、さらに今生きている人たちも幸せになることができるのです。」
お釈迦さまの教え通りに供養すると、目連の母は救われました。 目連は、この母の苦しんでいる状態のことを「盂蘭盆うらぼん」と表現しました。「盂蘭盆会うらぼんえ」は古代インドのサンスクリット語の「ウラブバナ」を漢字表記したものです。 ウラブバナは「とても苦しいこと」を意味し、そのことから「盂蘭盆会」はその苦しみを取り除くための行事でもあるのです。

「盆」という漢字は”皿を分ける”と書きます。
この表記のルーツを辿りますと、現在の世界地図で言うインドとネパールの国境辺りにたどり着きます。
お察しの通り、そこはお釈迦様がお過ごしになられた土地でございますが、実はこの地域は大変長い雨季がございます。
雨季の間、僧たちは堂宇に籠り読経に励みます。
僧たちは地域の住民の先祖や親戚を供養し、住民は僧へ食事などの施しをします。
食事はいわゆる精進料理
この家からはコレを、あの家からはコレを、といった具合に料理を分担し僧へ施します。
料理をお皿に盛り付け僧へ届ける、これが”皿を分ける”のルーツなのです。
この意を汲むに「独り占めしない」といことが肝要なのです。
目連と母がそうであったように「◯◯だけ」と言いますのは、慳貪けんどん(欲深い)の罪なのです。

皆様は「お施餓鬼」と言う言葉を聞いたことがありますか?
地域によってはお盆よりもお施餓鬼の方が浸透し、ほぼ同義語となっています。
餓(う)えると言う字は我が食べると書きます。
つまり、自分の主張しかせず争ってでも貪りたいわけです。
仏教でいう餓鬼という状態・容姿は非常に醜いものです。
手足はやせ細り、頭は頭髪が抜け、お腹は出ています。
なんとアンバランスなんでしょうか。
目連の母は餓鬼道に落ちたと説明いたしましたが、実の母のこんな姿みたくないものですね。
そりゃお釈迦様に相談したくもなります。

この餓鬼について、こんな面白い話があります。
餓鬼界にはたくさんの餓鬼がいます。
今日も特に理由もないのに、争い貪り怒っています。
ある日お釈迦様は餓鬼界を覗き、こう言いました。
「うーん、、、なんとか自分たちで餓鬼の心から仏の心を持つように誘導できないだろうか、、、?」
そこでお釈迦様は餓鬼界に「お箸・茶碗・食べ物」を落としてみました。
すると餓鬼たちは予想通り勢いよく食べ物に群がり、いつも通り争い怒っています。
そこへお釈迦様が一言「よく聞くのだ餓鬼界の者よ、この食べ物はお箸と茶碗を使わずに食べると死に至るように出来ておる。食器を使って食べるのだ」
餓鬼たちは「なんだ、そんな簡単に食べられるのか。なら食べ物を奪うのが先決だ」と言い、また揉め始めました。
一人、また一人と食べ物を奪い取り食べようとしています。
するとどうでしょう。お箸がぐんぐん長くなり掴んだ食べ物がどんどん離れていきます。
焦る餓鬼はどんな手を使っても食べてやる!とムキになりますが、その度にお箸は長くなっていき、とうとう力のない餓鬼には持ち上げられなくなりました。
このお箸には不思議な力があり、心に「欲望」があると、ある分だけ長くなるのです。
しばらく観察していたお釈迦様がもうダメかなぁと思ったその時
一人の餓鬼が「ハッ」と声をあげました。
実はこの餓鬼、生前は僧であり非常に賢いのです。
大きな罪である「盗み」を行い餓鬼になりましたが、生前の知恵はまだありました。
お箸を取り他の餓鬼に語りかけます。
「いいか餓鬼の者よ。この長い箸は自分のために使ってはならない。向かい合わせになり、他人の口に食べ物を運ぶのだ。」
この一言により餓鬼たちは協力し助け合い食事を食べました。
その姿はもう餓鬼ではなく、尊い者でした。

このように、やはり「独り占めしない」という背景があるのです。
餓鬼が他者を助け、利他が利己を上回った時に初めて「布施」という心が芽生えました。
これこそが「お布施」のあり方であり、その心が”慈悲喜捨”なのです。
慈しみの心を持ち、喜んで捨てる(自分の執着を捨て他者に与える)
お盆のご供養の際にご先祖様に見返りを求める人を見たことはありません。
皆、慈悲喜捨を知らず知らずに実践しているのです。
これからお盆がやってきますが、どうぞご自身のご先祖様やお近しい方だけでなく、多くの方へ供養の志を届け、慈悲の心で満たされる世の中にしていきましょう。