- Zenkyo
大智度論 巻十二「乞眼の婆羅門」
大智度論 巻十二「乞眼の婆羅門」
私という僧が生涯を通して向き合い苦悩し続ける事になるであろう『苦行と荒行の境界線』について、重要なピースになる説話
物語はお釈迦さまの十大弟子、智慧第一の舎利弗が乞食から「あなたの眼玉を食べたい」と言われ、自らの眼をくり抜き与える所から始まります
そもそも「乞眼の婆羅門(こつげんのばらもん)」とは、修行中の菩薩に眼の布施を乞う婆羅門の事です。
※バラモンとはインドのカーストで言う司祭です。
舎利弗が六十劫という途轍もなく長い布施の修行をしていた時、ある乞食が舎利弗の眼を乞いにやって来ます。
舎利弗が自分の片方の眼を取り出し与えると、なんと乞食は「臭い」と投げ捨て眼を踏みつけました。
救う事の出来ない者
残った片眼でこれを見た舎利弗は「このような者は救い難い」と思ってしまいます。
つまりこの乞食は救えない(成仏出来ない)と思った訳です。
そしてこれは菩薩行からの退転を意味します。
他者に対する慈悲を失った者は菩薩ではありません。
舎利弗は長い修行を積みながらも成仏の機会を失ったのです。
『苦行と荒行の境界線』
さて、我々はこの説話から何を教訓とすべきでありましょうか。
私はここに冒頭の『苦行と荒行の境界線』が存在すると思っています。
舎利弗は乞食から「あなたの眼玉を食べたい」と言われ、「布施行」として自らの眼を差し出しました。
この「布施」がポイントなのです。
布施は対価を求めてはいけません。
慈悲の心を持ち、自他に一切の区別をせずに成仏を願うのです。
では、舎利弗はどうだったでしょうか。
先には簡単に「片方の眼を取り出し」と書きましたが、恐らく大変悩み苦しみながらの決断であったと予想されます。
それはなぜか。答えは簡単です。
「眼は大切な物だから」です。もちろん同時に身体的な痛みも伴います。
これがこの説話のミソ、アキレス腱なのです。
苦行とは何か
俗に「釈迦は苦行を否定した」と言いますが、乞眼の婆羅門は構造的に
まさにお釈迦さまが否定された苦行そのものになっています。
「こんなに辛く大変な事をしたのだ」という心が「だから報われて然るべき」という心を生み出してしまうのです。つまり、対価として「自己救済」を求めてしまうという事です。
舎利弗は「とても大切な眼を差し出した」という前提のもと乞食と相対した為に、乞食が眼を投げ捨て踏み付けた事実に「救い難い」と思ってしまう。
そこで天秤に乗っていた「自己救済」と「自他に一切の区別のない慈悲」とが完全に「自己救済」へ傾いてしまった訳です。
しかし前述の通り、それは菩薩行からの退転であり、成仏の機会を失う事に直結しているのです。
そしてここが『苦行と荒行の境界線』なのです。
これは現段階の私なりの理解でしかありませんが
「見返りに眼を向ければ苦行となり、慈悲の眼を向ければ荒行となる」
のかもしれないと思っています。
「日蓮宗大荒行」
本宗、日蓮宗には恐れ多くも「世界三大荒行」と称される「日蓮宗大荒行」という修行があります。結界内にて参籠し、止暇断眠、僅かな精進料理を頂戴しながら、日に七度の寒水に身を清め、法華経読経三昧の日々を百日間過ごします。これが大荒行の概要です。
もうお察しかと思いますが、この荒行は本当に色々な事が紙一重です。
生死はもちろんの事、苦行とするか荒行とするかも紙一重です。
苦行を前述の乞眼の婆羅門に準えてお話しましたが、荒行とは苦行の対冲ではなく「隣同士」にある似て非なる物なのです。
そしてそれは慈悲次第なのです。
舎利弗はどうすれば正解だったのか、はたまた正解の無い問題なのかは今の私には分かりませんが、この『苦行と荒行の境界線』を片足ずつ跨いだ時、私が「法華の"荒行"僧」でいれるかどうかは永遠の課題であります。

最後までご覧下さりありがとうございました。